手塚治虫『新宝島』の衝撃
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『新宝島』はマンガ好きの聖書
手塚治虫の出世作の『新宝島』というのは、どの世代においても漫画界においての特別な作品として語られ続けている。
藤子不二雄や石森章太郎や楳図かずおやさいとう・たかをや宮崎駿などの手塚治虫直撃世代はマンガの聖書として。
藤子不二雄の『まんが道』自体をマンガの聖書として読んだ世代にとっては、新約聖書の中で語られる旧約聖書的な存在として。
それ以外でも、まんだらけなどのマンガ古書店では、最高の高値がつく漫画単行本として記憶されているマンガオタの方々も多いだろう。奇しくもそれに匹敵する価値をたたき出しているのは、やはり藤子不二雄(足塚不二雄名義)『UTOPIA最後の世界大戦』だったりするが、それはまた別の機会にでも。
かように『新宝島』は各界に衝撃を与え、発行部数は40万部以上になり、戦後マンガの最初のベストセラーになった。手塚治虫のデビュー作は新聞四コマの『マアチャンの日記帳』ではあるが、手塚治虫の名前を知らしめた最初の出世作として語られることが多い。長編ストーリー漫画としてのデビュー作という言い方をしても良いだろう。(ただし、処女作というわけでもない)
『UTOPIA最後の世界大戦』の方も今では安易に手に入る。ちなみに藤子不二雄のデビューも新聞四コマの『天使の玉ちゃん』である。手塚治虫信者のまさに絶対的頂点に位置するのが藤子不二雄なのだろう。
『新宝島』は読まれていない?
さて、その『新宝島』であるが、そうして名前だけは先行して有名になったものの、その内容を読んだという方はどれほどいらっしゃるだろうか。現代ではあまりいないのではないだろうか。僕も読んでいなかった。
旧約聖書や新約聖書にしても名前だけは知っていても内容まで読んだという人は少なかったりするのだから、マンガの聖書についても同じことが言えるのかもしれない。1947年に発行された古い漫画だからムリもなからんという理由もあるが、実はもうひとつ大きな事情があがあって、「最初の単行本が大ヒットを飛ばした後に単行本として出版される機会がほとんどなかった」せいでもある。60年代に模写が出版されたことはあったが、それもマニア向け。流通量はしれているだろう。
つまり、例えば『まんが道』や、数々の漫画界の巨匠や文化人の談話などに出てくる手塚治虫『新宝島』に興味を覚えた後の世代が、それを読もうとしても、古本で入手する以外に方法が無かったのである。それも手伝ってか古本価格はますます高騰していく。ついにはマンガ古書の最高値。ほとんどの人が読むことが出来ない。タイトルだけは知られている幻の漫画になっていったのだ。あの手塚治虫の大ヒット作として知られる作品が、まさかそんな扱いになるとは驚きである。『まんが道』の登場人物が誰しもが所有している聖書である『新宝島』。しかし『まんが道』の読者で、これを実際に読めた人は多くはないのだ。評判だけがひとり歩きしていく状態。
『新宝島』が再販されなかった理由
原稿を紛失していたことが第一の理由。当時の印刷物は原稿を元に職人が描いて版を作っていたので、自分の絵ではないこと。また原作構成としてクレジットされている漫画家・酒井七馬との見解の相違からくる、編集・改変・カットなどが加えられており「自分の作品ではない」とまで言い切っている。
「新宝島」の原稿はすでになく、原本は極めて粗悪な描き版によるもので、原稿の画をいちぢるしくきずつけており、これが復刻されることは作家として堪えられない。(中略)「新宝島」はあらゆる点で、ぼくの作品からかけはなれているのです。(中略)ぼくは、ワラ半紙に二百五十ページの下がきをして見せました。それはプロローグで犬を拾うところから、ラストの夢オチまで、ちゃんと起承転結のある物語でした。しかし、酒井さんは、出版社との約束が百九十ページがギリギリ限界だということで、六十ページ分をけずられました。ちゃんとまとまった話からそぎとる形になりますから、筋の構成に無理が生じます。(講談社手塚治虫全集『新宝島』あとがきより)
つまり出版された『新宝島』は起承転結がちゃんとしてないという恐るべき認識。また勝手に原稿の絵を変えられたり、文字を書き加えられたりしたことにも忸怩たる思いがあったようである。
なにしろ関西で戦後最初に出版された単行本です。描き版の技術は、正直なところ、最低でした。ぼくの描線のニュアンスは、担当の版下屋さんが手をぬいていいかげんにひきうつしたため、もとの原稿とは、およそかけはなれた絵になってしまいました。ひどいところになると足が一本抜け落ちていたり、笑っている目の下にもう一つ目玉をかき加えたり……といった、どうしようもないミスがあります。だからこそ、「新宝島」だけは、復刻にせよ、絶対にしてほしくない、あんな絵を出されたらぼくの恥さらしだというわけで、今まで”まぼろしの本”になっていたのです。(講談社手塚治虫全集『新宝島』あとがきより)
当時これを聖書として崇め影響を受けた藤子不二雄を筆頭とするレジェンド級まんが家たちや、高値で古本を求めたファンが、卒倒しそうな見解である。完璧主義者として知られる手塚治虫らしい理由でもある。
二つの『新宝島』
1986年に転機が訪れる。今では手塚治虫のスタンダードとして知られる、講談社の手塚治虫全集の第281巻に、幻の『新宝島』が収録されたのだ。これについても上記で述べたような理由から、手塚治虫が難色をしめし収録が危ぶまれたそうだが、出版社の説得に折れてついに決断される。以降この全集は文庫化やオンライン化もされており、誰も安易に閲覧することが可能である。これでようやく『新宝島』が、「一部の人しか内容を知らない聖書」から「実際に読める聖書」になったのか。しかしこれも少し事情が違っていた。
手塚治虫全集に収録された『新宝島』は1947年に発行された本の内容を再録したものでは無かったのだ。
1947年の『新宝島』を元に、当時の手塚治虫が最初の単行本ではカットされて失われた内容を、記憶を頼りに付け足したり、覚えていないところを新たに創作したり、当時の雰囲気は残しつつも、全面的に原稿を描き直したリメイク版だった。つまり『新・新宝島』といっても良いほどの作品で、知られざる晩年の手塚治虫作品ということになる。
本来の『新寶島(旧漢字だった)』の完全なる復刻版は2009年に小学館クリエイティブから出版されるまで存在しなかったのだ。これによって本来の『新宝島』は一応は誰も読むことが可能な状態になった。手塚治虫死後数十年待たなければならなかったことになるが。これによってついに幻の原本が我々の手の届くところにやってきた。現在では、あの藤子不二雄や、石森章太郎や、当時の子どもたちが大熱狂した聖書がそのまま手に入るのだ!長かった!
手塚治虫全集版『新宝島』の意義
さて、完全復刻がなった今では、全集版のリメイクされた『新宝島』はその意義を失ってしまったのだろうか?全くそうは思わない。
最初の単行本に思い入れのある方はともかくとして、新規にこの作品に触れる人は全集版の『新宝島』を読むことをオススメする。
端的にいって絵が綺麗。テクニック的にも構図的にもきわめて現代的で、驚くほどすんなり読める。そしてストーリーも不本意だったところを構成し直して、手塚治虫の本来の意図するオチを付け足してあり、本人の言に下側ならば「起承転結がきっちりとした」ものになっている。これら作業をしたのは1986年当時の手塚治虫。1989年に亡くなるのであるからほとんど晩年の作業だ。巨匠が自分の最初のヒット作を、その後40年近くかけて培った画力や構成力をふんだんに盛り込んでリメイクしたと考えると感慨深い。
感慨だけではなくて、実際に全集版『新宝島』は面白い。「どうせ古くさいマンガ」と思っていた自分が恥ずかしくなるくらいよく出来た内容だ。冒頭からのスピーディーで流れるような展開と、熟練された構成と描線。当時の手塚治虫は劇画よりのタッチを取り入れた作品を多く出していた。しかし『新宝島』のリメイク版にあたっては、昔の自分の絵に似せるように描いている。当時の熟達した手塚のペンで、劇画ではない本来の手塚タッチで描かせると、これほど上手かったのかと唸ってしまう。当然といえば当然なのだが、昔のタッチの画は絶対に描かないという種類の漫画家も多い昨今(昔の原稿に手を入れる場合であっても、平気でまるで絵柄の違っている現在のタッチのコマを追加したり……)これは驚異的なことではないだろうか。手塚治虫の作家としての特異性とも言える。
ピート少年が車をとばす有名な冒頭のシーン。疾走感が只者ではない。否応なく物語に引っ張り込まれる。
最初の『新宝島』は「紙で観る映画だ!」という衝撃があったそうだが、このリメイク版はさしずめ「紙で読むアニメ」である。虫プロのアニメ制作の経験が遺憾なく発揮されているように思える。
『まんが道』に登場するものは当然ながらオリジナル版である。たまに当時の『新寶島』を紹介する折に、全集版の画像を引用してしまう人もいる。その点、藤子不二雄はさすがに信頼できる。(もっとも、当時は全集版は影も形もなかったが。)
クリエーター根性と、時代的な要請があり、仕方がなかったとはいえ、当時の手塚治虫は劇画よりの大人向け漫画ばかりが知られていた。1986年といえば『アトムキャット』や『ミッドナイト』『火の鳥太陽編』の時代だ。全集版の『新宝島』を読むと、晩年の手塚にこそ、もっと手塚治虫タッチの子ども向け作品を描いて欲しかったと思ってしまう。現代ではリアルな頭身の劇画系統とは別に、手塚治虫系統のデフォルメキャラクターが再び注目を集めている時代だ。それだけに、どうしても惜しい気持ちがある。今更いっても仕方のないことではあるが。
また、当時は、古くさいコマ割りだったかもしれない、1ページに三段から四段かつ1コマづつ、という単調なコマ割りについても、現代の萌え四コマの隆盛や、タブレット型端末に合わせたマンガとして考えると、特に違和感がなく、むしろ読みやすいとさえ感じる。これはもちろん現代を予見していたわけでもなんでもない。偶然というか、漫画表現がたまたま先祖返りのように一周してきたのだ。ひょっとするとこれからのマンガのデジタル化時代の新たな聖書として全集版『新宝島』が使えるかもしれない。そうなれば本当に凄いことだ。いずれにせよ、漫画にかかわる人ならば、全集版『新宝島』はぜひ読んでもらいたい。実に贅沢な作品だ。
四コマとしても通じるこのテンポの良さはどうだろうか。当初はしばらくこのピート君(ケン一)と船長(ブタモマケル)のコンビで漫画を描いていくつもりだったようだ。紆余曲折あって、ケン一少年は有名なヒゲおやじとコンビを組むことになる。
『新宝島』は新時代のマンガ聖書になりうるか?
手塚治虫は終生「子ども漫画の手塚治虫」でありたいと考えていたようだ。全集版『新宝島』を読むと、その手腕が遺憾なく発揮されている。
初期の代表作である『来るべき世界』『メトロポリス』『ロスト・ワールド』にしても、当時の子どもに爆発的に受けた作品であり面白い漫画でもあるが、基本的には暗いSFストーリーだ。それが大人も読めるストーリー漫画として、日本のマンガ文化を牽引してきた原動力になっていったのは万人が認めるところだが、子ども向けとして手放しに楽しめる物語として考えると、どこかひっかかる事が多いのも確か。手塚治虫の漫画全般に言える傾向かもしれない。どうにも無理矢理にでも悲劇的なオチがついていることが多くて読後感が悪くなってしまっている。打ち切りになった作品ほどそういう傾向が見られる。子どもの目線からすると、同じような系統の絵柄の藤子不二雄の子供向け漫画に比べると、手塚治虫のシビアーなSFストーリーの世界観はとっつきにくく感じいた事を思い出す。
全集版『新宝島』は明快だ。良くも悪くもオチに変な悲劇性が全くなく、実に美しくまとまっている。ピクサーのアニメ映画を見終わったかのような読後感だ。そういう意味でも、手塚治虫の描いた長編ストーリー漫画としても、晩年に描かれた純然たる子ども向け長編漫画としても貴重な作品と言えるのではないだろうか。いわば子供まんが家手塚治虫の集大成のひとつではないかと考えるのだ。
ともかく、そういうわけで、全集版『新宝島』は、手塚治虫作品の中でも必読なのだ。
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